江戸時代に一番高価だった薬は、何と言っても朝鮮人参である。
たとえば、8代将軍吉宗の時、
1斤(600g)が銀1貫440匁(約240万円)
で取引されていた。
この為、日本から銀が大量にに流出するのを防ぐために吉宗は国産化を目指して薬園で試稙させた。しかし、なかなかうまくいかなかった。
1728年ようやく対馬藩から献上された生根8本と種子60粒が御神領今市で育った。その種子(オタネニンジン)は諸藩に下賜・分与され栽培が奨励され全国各藩に広がった。朝鮮人参の栽培で優位に立ったのは松江藩と会津藩であった。
会津藩では、貴重な朝鮮人参の種子を貸し付けて栽培させた。しかし、種を捲いてから収穫するまで4年位掛かり、日当たりを嫌うため日覆いを立てたり、連作ができない為に5年後には新しい耕作地に替えなければならないなどの手間と経費が掛かり、藩もこの間農家を助成した。
ようやく1780年代に栽培が軌道に乗り「人参役所」を設けて藩の専売品にした。農家に貸し付けていた種子が育ち収穫できる時期になると人参役所の「鑑定方」が立ち会いのもとに収穫をした。品質・等級・売値が判定されると藩の取り分が6〜7割、農家が3〜4割の金を支給された。ただ、相場の変動が激しかった。豪商・三井(越後屋)の大坂店が1802年から1871年に記録していた市場相場では、1斤当たり最高値銀38貫(6300万円)最低銀3貫(500万円)という記録がある。が、平均すると銀12貫から16貫(2660万円)位であった。
会津藩産の朝鮮人参は、長崎から国外に輸出され国内では売られなかった。なので、会津藩には莫大な売上金があったはずである。が、幕末には、会津藩は、幕府から京都警備などの経費のかかる事業を申しつけられたりし、朝鮮人参の収益も消え藩も崩壊した。
ところで、朝鮮人参と野菜の「にんじん」は、まったく違う植物である。
朝鮮人参は、ウコギ科・にんじんは、セリ科である。
薬になる「朝鮮人参」が日本へ渡来したのは、奈良時代の739年と古いのであるが、野菜の「にんじん」は、室町時代にに伝わり、江戸時代に広まった。当時、砂糖がめったに口に入らなかったため、にんじんの甘さが重宝された。奥女中達は好んで食べた。
ところが、にんじん好きは、「好色」だと言う評判が定まって人前や特に男性の前で生で食べるのは我慢した。
なぶられて嫁にんじんを食い残し
という川柳があるそうである。
にんじんを食べていた嫁が「すけべぇ」とからかわれて無念にもたべれなくなったという意味である。
参考文献:都薬雑誌6月号第66話「高価な朝鮮人参と安価な人の命」丹野 顕殿著から
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